織田家主要人物の1人っぽい感じでもありながら記録上ではイマイチ存在感の無かった前半生とは裏腹に、人生残り10年を切ったタイミングで確変した塙直政。
後編では記録にも残るその華々しい晩年を見ていきます。
あ、その前に前編の信長と直政の妹の子の話の続きを。
織田信正
「織田信正」という信長の庶子で村井貞勝の養子に出されたという人がいて、この”信正”が直政の妹の子という話があります。
なんと信正は信長の初めの子であり、本当は長男なんですが、嫡男(跡継ぎ)は別にいて、信長の隠居後はその嫡男が織田家を継いでます。
次男以下ならともかく初めて生まれた子を家来の養子に出すあたり、公にはできない事情があったのかな?
家康や歴代将軍の子供にも似たような話がありますし。
また、信正ではなく、その嫡男が通常、信長の長子とされ次男・三男とされる弟たちと共に他の子供達とは別格の扱いを受けています。
信正はどんな気持ちでトリオの待遇を見ていたんでしょう(;・∀・)
前編の通り、信長の子供は側室の子しかいないんで、他家のように正室の子と側室の子という差別はないようなんですが、側室にも出身の家の格を基準にした序列があったようです。
他の兄弟もそうですが、3人に比べて信正は知名度ほぼゼロの上、実権はなかったみたいですね。
どういう経緯で信正がこんな不遇な扱いを受けたのかは分かりません。
最近では一次資料に登場しないことから、
「織田信正って実在しなかったんじゃないか?」
そんな話にもなってきてるそうで。
実在しない理由としては資料に記録がない他、若すぎる官位任官と90歳代まで生きたという当時としては長すぎる寿命が不自然とのことです。
不自然だろうか?
官位任官は信長の長男なら特別の計らいがあってもおかしくない。
寿命も90代まで生きたと公式記録にある昔の人ってけっこういますけどね。
その公式記録自体が怪しいと言われればそれまでですが。
そして資料に名前が出てこないのは塙一族の存在が織田家から消された為では?
消されてるんです。塙一族って。
それも本記事で書いていきますね。
守護拝領
それでは直政の華麗なる遍歴を紹介していきますね。
まずは山城国の守護に任命されたこと。
守護は有名な守護・地頭のセットで出てくるあれですね。
山城国っていうのは京のことで現在の京都府の南側、京都市近隣あたりです。
京都府の北側って山ばっかですもんね。
北側は当時、都とは扱われていませんでした。
現在の舞鶴市や福知山市は山城国(京)ではありません。
当時、京を指して「天下」と表現することもあり、山城は他の国とは違い、日本の中心です。
天皇も京にいましたしね。
そんな特別な土地の守護職に任命されるとは、
直政に何が起こったんでしょうね?
信長が尾張の一領主だった時代に
赤母衣衆なんかに選ばれたのとは話が違います。
まあ実際は村井貞勝・明智光秀・長岡藤孝らと分割して各々が京の担当エリアを統治してたみたいですが。
直政は摂河泉や大和を向く南エリアを任されてたんで、その4人の中でも軍事的に期待されてたのかな?
織田家の序列って一門衆以外、はっきりとあったわけではないんですけど(あえて言えば林さんが筆頭家老みたい)直政の地位はこの時点で家中でも片手で数えられるぐらいの順位だったと思われます。
村井貞勝は将軍家(たぶん実際は信長かその周辺)が新設した京の総監督的な肩書をもらってますが、他の明智・長岡あたりでさえ、特にそういう役付きになってないあたり、直政の存在ってやっぱり他とは別格だったんでしょうね。
そんな栄光を浴びている真っ最中の直政、
続いて大和守護も拝領し従来の山城と大和の兼任守護になります。(!)
おいおい・・どうなってる?
織田家出世レースで単独トップを独走してるぞ直政!
2位以下を大きく突き放して。
やりすぎじゃない?
いくら林や村井は役割が違うと言っても直政に実質ぶち抜かれてますよね、これ。
織田家中の動員石高ランキングで圧倒的1位ですもん。
米本位制でやってる戦国時代、領地の広さ=実力です。
すでに佐久間信盛とかでもはるか後方へ置いて行かれてない?
正確には信長から職務遂行の為に土地や人間を借りているので「領地」とは言えませんけど。
それでもね!?
「1570年台って秀吉・光秀が織田の両輪じゃないの?」
そんなイメージですよね!?
違うんですよ。
直政なんですよ(^_^)v
織田家と言えば塙直政!
この頃までは。
益々のご活躍をお祈りされつつ戦死
京で直政が活躍していた頃の織田家の対外戦況ー。
信長の上洛からしばらくして信長と足利将軍は喧嘩して将軍はあろうことか周辺大名に信長を攻撃するよう仕向けます。
周辺の大名と一気に臨戦態勢となった織田家ですが、各個撃破に成功し、逆に将軍様が京から出ていく羽目になりました。
その後、有名な「長篠の戦い」が起こります。
織田・徳川 VS 武田で起こったこの戦、参加者も3家の主力がほぼ出揃い、両者共に意気込みを感じますが、結果は武田の惨敗に終わります。
直政もこの総力戦に鉄砲奉行の1人として参加しています。
長篠の戦いの戦果で一時的に織田家に敵対する大名勢はほぼ大人しくなりました。
日常業務は相変わらず煩雑でも戦が一区切りで、ほっと一息というところでしょうか。
これまでの顕彰とでも思ったのか対外への誇示なのか何なのか戦後、信長は主だった配下へ官位を授けるように朝廷へ要請します。
有名な羽柴筑前・惟任(明智)日向・村井長門といった名前はこの時に朝廷からもらったものです。
直政は「備中守」をもらいました。
さらにその内、直政と他2人は姓をもらっています。
直政がもらったのは筑前原田氏(九州では名門だったみたい)の「原田」という姓です。
これ以降、直政は名乗りが変わり「原田備中」となります。
すごいですね!
直政の大躍進が止まらない。
きっと信長もこれまでの功績を称えるとともに今後よりいっそうの活躍を期待して官位と姓を直政にくれたんですよね!
そんな絶頂期の直政は
それから1年も経たないうちに戦死します。
原田家関係者全員追放
勝敗は兵家の常、どんな名将だろうと一時の運次第で戦死することもあるでしょう。
直政が戦死した戦の相手方は信長の生涯において最も手強かった一向宗、いわゆる「一向一揆」を指導していた”本願寺”です。
はっきり言って織田家が本願寺から受けた損害と費やしたリソースの総量は今川・斎藤・武田あたりとは比べものになりません。
そんなわけで宿敵の対本願寺戦で直政は死んでしまいます。
そして理由は不明なんですが直政の戦死後、
その関係者まで敗戦の責任を取らされ織田家から追放されています。
何で!?
想像上の理由として、よく言われているのは
直政が死んだあと勢いに乗った一向宗門徒は摂津の重要軍事拠点、天王寺砦を包囲、落とされる寸前で信長本隊が駆けつけ九死に一生を得る逆転勝利をおさめた。
しかし、信長はこの戦で受けた損害は全て直政のせいだと怒り狂い、直政の一族郎党全てを追放した。
う~ん。
・・・そこまでやるか?
戦の具体的な経過がわからないのですが、直政って戦って負けて供回りと一緒に戦死してるんですよ。
名誉の戦死っぽいんですけどねえ。
で、最終的に織田は天王寺戦では勝利している。
これまでの直政の功績を偲んで涙の一つも流してくれても良さそうなものなのに。
「惜しい男を失くした」と。
いったい何をやらかせば本人どころかその関係者まで追放になるんでしょう。
裏切り?
敵前逃亡??
重大な過失???
直政が期待されていた仕事を怠った為に起こった苦戦だったのか。
誰かが信長にあることないことチクって隆盛を極めていた原田家を落としにかかったのでは?
あるんですよね。そういった例が。
原田直政亡きあと、本願寺戦の後任に就いた「佐久間信盛」っていう家中一、二を争う大物がいたんですけどね。
そんでこの信盛さん、本願寺を降参させてるんですけどね。
戦後、戦い方がぬるいって信長に怒られてこれまた一族郎党追放されてるんですよ。
この時も理由はよくわからないんですけど、真相に近付く為の一つの参考として、後から信盛の息子が「明智光秀に陥れられた」と言ってます。
その裏付けになるかは微妙ですが
光秀は信盛追放後、その軍勢を引き継いでます。
一緒じゃない?
直政も。
真偽は遠く歴史の彼方に。
見る影もありません。
こうして織田家のエリート畑を懸命に歩んできた直政は一度の敗戦により命と同時に名誉も奪われてしまいましたとさ。
・・・ちょっと後味の悪い結末ですね。
織田の天下取りを支えた中には有名な”羽柴秀吉”や”四天王”以外に直政もいたんですよ。
いたどころか失脚までは織田のトップだったんですよ、というお話でした。
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