37.三好長慶の関係者

こんにちは。

三好長慶の一族と有名な家臣(?)松永久秀について。

前回の続き。おまけ?

 

三好家躍進を支えた長慶の一族

三好長慶がどれ程優れていても1人では大したことはできません。

史上、いかなる英雄も勢力を拡大する為には多数の人材を得なければなりませんでした。

 

幸いにも長慶は若い頃から人に恵まれており、家が大きくなってからは別働隊を一任できる能力を持った人間が周囲にそろっており、そのほとんどは家族です。

毛利・北条・島津等も一門衆に恵まれていたと言いますが三好の一門も彼らに引けは取りません。

そんな三好家拡大の為に頑張ってくれた皆さんを紹介していきます!

 

絶対的信頼、相棒役の長弟

三好長慶には3人、または4人の弟がいて、長慶のすぐ下は「三好実休みよしじっきゅう」という人です。

 

名前は音読みですし法名ほうみょうなんでしょうね。

法名っていうのは出家して仏に仕える身となった時の名乗りです。

有名どころだと武田信玄や上杉謙信も法名で元の本名は別にあります。

 

彼らも実休もその事績はおよそ仏の道からかけ離れていますが。

 

あと歌人や茶人といった芸能系の芸名もこんな名前にすることがあります。

実休は茶人としても有名なんで所属する茶人サークル用にこんな名前を名乗ってたのかもしれません。

長慶や他の兄弟は法名を名乗ってなかったようなので、なんか特別な理由でもあったんでしょうかね。

 

本名というか俗名(法名の逆、俗世での名前)は諸説あり不明です。

信長の野望では三好「義賢よしかた」になってました。

 

この実休、名前だけじゃなくて年齢も不詳です。

父親が戦死した時は推定5~7歳ぐらい。

家督を継いだ年齢が10歳の長慶も実休に比べればまだ物事の分別のつく年齢ですね。

 

幼少であることが何の言い訳にもならないこの時代、幼稚園か小学校低学年の年頃にして実休は健気にも兄、長慶と三好家代表の1人として活動しはじめます。

 

長慶が主に京阪地方で活躍していたのとは違い、実休や他の弟たちは三好氏の本拠である阿波国で若年時を過ごし、長じてからも阿波や讃岐といった四国東部を拠点として必要がある時のみ畿内へ赴くようにしていました。

長慶が細川晴元と対決した大一番でも阿波国衆(阿波国内に地盤を持つ豪族や武士団)を率いて活躍したと言われます。

 

めでたく京で細川晴元を潰走させ、三好側が勝利に浮かれていた後、阿波に戻った実休を生涯にわたり苦しめる出来事が起こります。

それは京で晴元が凋落した後、実休は晴元の弟にあたる”細川持隆ほそかわもちたか”を殺したこと。

 

持隆は阿波の貴族で同じ細川氏でも長慶たち三好兄弟に同情的な立場をとってくれていた人です。

父の敗死後、三好兄弟は阿波に逃げこみますがそこで兄弟を保護してくれたのが持隆でした。

 

帰って早々に狂乱の京へ戻った長兄の長慶以外の兄弟は阿波に残り持隆の下で成長したと思われます。

持隆は実休や兄弟にとって幼少時に育ててくれた恩人であると同時に主君でもあるので、この人を殺すということはまさしく不義不忠の行為です。

 

殺人に至った動機は諸説ありますが、根底にあるものはやはり三好家の阿波における基盤安定でしょうか。

持隆は晴元没落後も名前だけは阿波の代表者でしたからね。

すでに敗軍の将となった細川晴元に往年の力はなく、三好家にとっては畿内に並ぶ重要拠点の阿波を三好の完全管理下におきたかったが故の苦渋の決断かと思います。

このことは死の直前まで実休に罪の意識を植え付けたようです。

 

血で血を洗う戦国時代、鬼となり修羅となっても目的を完遂することが正義であったのでしょう。

幼少時代の保護者を弑した後も三好家の為にとばかり実休は奮戦し、阿波国を取りまとめます。

長慶が活動する際に本拠の阿波国から兵や物資を調達できたのは本当に心強かったと思います。

長慶にとっては、まさしく生命線と言えるほど大きな存在でした。

 

実休は阿波をはじめ四国北部や播磨を影響下に置き、その後も休むことなく畿内に遠征し河内国や大和国で戦を続けています。

長慶も頭が下がる思いだったことでしょうね。

 

しかし、三好氏の最盛期とも言える1562年、実休は和泉国いずみのくにで戦死します。

生涯を兄と家に捧げた実休は夢半ばにして戦場の露と消えました。

 

長慶に先立つこと2年、三好家はナンバー2の人材を失うことになりました。

実休ほどの存在を失ったことはその後の三好家に大きな影を落とすことになります。

 

 

子の鏡は親 受け継がれる猛将の血

実休以外にも長慶の兄弟は1名を除きみなさん名将の誉れ高かったんです。

 

除かれた1名も頑張ってたと思うんですけどね。

なんか何をしてた人なのかよく分からないし、「一次資料に名前が無い、よって実在しなかった」という最近の流行のせいで存在自体が怪しい人となりつつあります。

末弟の「野口冬長のぐちふゆなが」って人なんですけど。

 

名字が”三好”じゃなくて”野口”なのは野口家に養子に行ったから。

他の兄弟も長慶と実休以外は他家に養子に出されてます。

嫡男以外を養子に出すというのは信長や家康はじめ、他の戦国大名も普通にやってて珍しいことではありません。

 

養子に出す目的は大方その家の乗っ取り。

養子に出した先が名家であったら箔付けにもなりますしね。

 

「養子に送り込んで乗っ取り作戦」。

本当によく聞く話ですけど養子に迎える側の家って何考えてたんでしょうね?

もう自家だけでは立ち行かなくなって甘んじて大きな家に身を任せる感じでしょうか?

会社の買収みたいな感じで。

 

野口さんも野口家を乗っ取る、または三好家に都合よく動かす為に養子に赴いたと思われます。

繰り返しますが実在したかも怪しいようですが。

 

うーん、野口さん、いたと思うんですけどねー。

存在がフィクションとしたら普通に考えてそれなりに役どころが付けられると思うんですが全く何もないんですよね、この人。

考えた人は何が目的で野口さんを創作したのか。

自分ちの家系の捏造とかかな?

「うちは三好氏に連なる家系で長慶には実は5番目の兄弟がいた」的な??

 

まあ野口さんは置いといて。

話を戻して名将揃いの三好兄弟。

1人を除く四兄弟。

なぜ名将が揃っていたかというと幼少期に父親を殺され復讐の念に燃えていたというのも大きいのかもしれません。

やっぱりモチベーションというのは行動力に直結しますから。

 

ですが、1名を除いて一家揃って優秀だったというのは親の教育が優れていたのかなあと思います。

長慶自身が晩年に「親の訓えに従いて~」とか歌ってますしね。

 

ちなみに信長・家康はじめ、戦国時代に名を広めた人たちは親や祖父も優秀だったというケースが多いです。

北は南部・伊達から、南は大友・島津まで、みんなそんな感じですね。

秀吉も記録にはありませんが、もしかしたらその親はひとかどの人物だったのかもしれませんしね。

 

そして三好家にも後の長慶の活躍を予見させるような優れた祖先達がいました。

 

まず、三好兄弟の父、三好元長みよしもとながは前回書いたように管領、細川晴元と共にその名を天下に轟かせた豪傑です。

不謹慎ですが非業の最期を遂げたのも結果的には兄弟を焚きつけるのに役立ったのかもしれません。

 

また、その祖父、「三好之長」みよしゆきなが(長慶から見て曽祖父)は”応仁の乱”以降に頭角を現した「大悪」、現代風に言うと反社会的勢力の大物。

阿波国の一土豪だった三好家が京でも力を持ち始めたのは之長の代からっぽいです。

 

さらに上の代だけでなく長慶の子供も出色の賢才です。

嫡男、「三好義興みよしよしおきは智勇優れ長慶の跡を継いで家をより発展させる人物と目されていました。

 

が、長慶に先立ち20歳過ぎで病にかかり亡くなってしまいます。

亡くなってしまった以上、本当はどれほどの人物だったかその真価は不明。

それでも、もし義興が長生きしていれば信長上洛、そしてその後の歴史がどうなっていたかを妄想せずにはいられません。

 

このように三好家は長慶以外もその父祖・子息、さらには兄弟と、時代に爪痕を残した人たちが多く存在しました。

 

長慶だけでなく、彼らもまた三好家隆盛を造った英雄です。

 

阿讃衆を任された水陸の名将

上に長慶は4人兄弟と書いたので長慶と長弟、実休以外の次弟と三弟のことを。

 

幻の5人目こと、野口さんは活動内容が想像できる資料が無さ過ぎて割愛。

多分、上のお兄さんたちのお手伝い的なことしてたんじゃないかな?

あくまで実在したのなら。

 

それでは三男の「安宅冬安あたぎふゆやす」から。

 

珍しい名字ですが徳島県に現在も安宅さんという方はいらっしゃいます。

徳島市には安宅という地名もありますしね。

読み方がバラエティに富んでまして「アタギ」・「アタカ」・「アタケ」と筆者が知るだけでも3パターンあります。

 

そんなややこしいお名前の安宅さん。

一言でいえば「三好家の良心」。

 

一昔前の三好家の研究が盛んじゃなかった頃、三好一族は成り上がりの鬼畜集団というイメージ。

長慶も歌にウツツを抜かして仕事をおろそかにする腑抜けみたいな人物像だった頃。

そんな中で唯一、安宅さんは良い人扱いでした。

穏やかな人格者で周囲にも優しく接していたようです。

 

有名なエピソードとして長兄長慶が無闇に人を殺すことを虫を引き合いに命の大切さを説き戒めたり、次兄の実休が恩人の細川持隆を殺したことを悔やむと思われる歌に返歌で慰めたりしています。

修羅道まっしぐらの三好家のみなさんも安宅さんの気遣いに一時の安らぎを感じていたことと思われます。

 

彼を評して曰く、「国家を懐くべき仁将」とのこと。

 

もちろん槍先の働きも大きく、彼が率いた淡路水軍は瀬戸内海東部を制圧し莫大な経済効果を三好家にもたらしました。

有名な戦国大名って海運・水運を財源に持っていた人が多いんですよ。

水軍のスペシャリストって中近世の日本ではあんまりいないので目立ちますよね。

戦国時代で有名なのは信長の覇業に貢献した志摩の九鬼水軍、同じ瀬戸内の村上水軍あたりでしょうか。

 

日本の水軍て明治以降の日本海軍新設まではそんなに高い名声を持ってたわけじゃないんですけど、やっぱ海がもたらす富っていうのは昔から注目されていました。

 

本州と四国をつなぐ淡路エリアを三好家が抑えたことは、はかり知れない効果があったと思います。

これほどの大仕事を任されていた安宅さんの器量がうかがえますね。

 

そんな愛情一本な安宅さんの最期はなんと人生を捧げて尽くしてきた兄の長慶に誅殺されます。

 

殺された原因は不明。

 

現在の仮説で強いのは、

①長慶は晩年ボケてたので周囲にそそのかされて殺した。

②三好家の後継者は若く実績も少なかった。長慶の死後、当主を上回る実績と人望を持つ安宅さんを担ぐグループが現れるかもしれない。後継者派と安宅さん派で派閥争いを起こしてるところを外敵に付け込まれることを危惧した長慶が不安材料の安宅さんを殺した。

上の2つでしょうか。

どっちにしても辛いな。

いずれも憶測なので、他にも異説がありまして。

ちょっと極端ですが「長慶が殺したんじゃなくて自ら家の為に自殺した説」や「タイミングよく病死したことを人の噂が面白おかしくした説」なんかもあります。

 

最後は四男の「十河一存そごうかずまさ」。

三好家の武の象徴たるお人。

 

この人を三好兄弟の末弟としている全ての資料は野口さんの存在否定派です。

 

さて、安宅さんに続いて十河さんも読み方難しいですよね。

パッと字面だけ見たら四字熟語か中国語かと思うぐらい馴染みがない字の並び。

 

読みの「ソゴウ」は有名百貨店でお馴染みですけど。

もう古いかな?

名前も「カズマサ」読みが一般的なようですが「カズナガ」と読む説もあります。

筆者は長年カズナガと思いこんでたんですけど、カズマサ説が有力みたいですね。

 

ちなみに名字の十河も「ソゴウ」の他に「ソガワ」・「トガワ」等と読む人も現代にはいらっしゃいます。

祖先をたどると同じ家なのか。

違う家が違う読みで読んだのか。

明治時代の特権階級以外も名字名乗れるようになった時って勝手に名前名乗りたい放題だったみたいですし。

 

えー、この十河さんは戦闘集団である三好家においても軍事部門代表だったようで”鬼十河”とかいう物騒な呼ばれ方をしています。

長慶も他の兄弟も戦をさせては相当の実力があったと思われますが、十河さんはそんなお兄さんたちをもさらに上回ってたんでしょうかね。

信長の野望でも「家中随一の猛将」って紹介されてますし。

 

実際何の戦でどういう武勲があったのかはよくわかりませんが。

まあそれは三好実休も安宅冬康も同じですけどね。

細川晴元戦や畿内平定戦で兄たちと一緒に活躍してたみたいです。

 

で、三好兄弟は兄弟で統治エリアを分担していました。

実休は阿波、安宅さんは淡路、そして十河さんは讃岐国さぬきのくに(香川県あたり)を任されていたそう。

十河さんは三好家三本柱の一本を担う男だったんですね。

ところで野口さんは何か担ってたんでしょうか。

担う前に亡くなってたのかもしれませんけど。(生没年もわからない)

 

この十河さん、三好の武と謳われた十河さん。

畿内平定戦の途中で病没してしまいます。

 

三好家がこの世の春を満喫していた頃に兄弟で1人先に死んでしまいました。

ところが十河さんの不幸は十河さん1人の不幸にとどまらず三好家を不幸の連鎖が襲います。

十河さんが亡くなられてからわずか3年のうちに三好四兄弟並びに長慶の嫡男が全滅してしまうんですよ!

 

 

1561年 四男 十河一存 病没

1562年 次男 三好実休 戦死

1563年 世子 三好義興 病没

1564年 三男 安宅冬康 刑死

1564年 当主 三好長慶 病没

 

 

・・・何かのタタリに触れたんでしょうかね、この人たち?

長慶なんか10歳過ぎぐらいから戦に次ぐ戦、戦が落ち着いてからも2回ほど暗殺を試みられるも平気な顔して生き延びてたのに。

ミステリー性高いですよね。

こんなパタパタ関係者が死んでいったら。

そら普通に考えて事件性を疑われるでしょう。

 

事件だったのか偶然だったのかはわかりません。

ただ十河さんの死去がこの一連の全滅のトリガーとなったことは事実です。

 

栄華を誇った三好氏も十河さんを皮切りに上の5人が亡くなると一気に勢いがなくなります。

致し方なしとはいえ寂しいもんですね。

 

 

松永久秀、評価の変遷

松永久秀まつながひさひで」、三好家において絶大な存在感を放つ家臣ですが聞いたことありますかね?

”久秀”より”松永弾正”の名前の方が有名かな?

そして”三好家の家臣”より”織田家の家臣(仮)”としての方が有名かな??

 

そのポジションは次元が違う

簡単に紹介すると、どこの馬の骨とも知れない松永さんですが、いつの間にか三好家内で「本当に家臣なの?」ってぐらい昇りつめていました。

どこの馬の骨でも実力があれば昇りつめるのに問題ないんでしょうね。

秀吉や光秀なんかもそうですし。

 

ただ松永さんは昇りつめ方が異常でして、驚くことに室町幕府からは主君の長慶嫡男の義興と同じ待遇(!)を受けていたとの話もあります。

そういう例って他にあるんだろうか?

 

例えば織田家で林・佐久間・明智といったトップクラスの重臣でも信長嫡男の信忠とはとても並べなかったでしょう。

信忠どころかその兄弟やご連枝連中でも、どんな重臣たちより扱いが全然上です。

豊臣家で千利休や片桐・大野らが秀次や秀頼と並ぶ、徳川家で酒井や石川が信康や秀忠と並ぶ。

いずれもあり得ないかなー、と。

 

そう考えると三好家における松永さんの存在が別格だったことがわかります。

松永さんと並ぶ重臣だったらしい岩成や篠原がどんなもんだったかはわかりませんが、彼らが義興と並ぶ扱いを受けていたとは思えないです。

 

単に幕府が三好家と松永さんを切り離す離間策を狙ったのかもしれませんが。

簡単に言うとトップの重臣を主家と仲違いさせて引き抜いたり独立や謀反をさせたりすること。

戦国大名はこれをよくやります。

戦国大名っていうか古今東西よくある手段ですが。

 

秀吉に至っては有力大名で仕掛けなかったところが珍しいぐらいやってます。

しかも高確率で成功してます。

おそらく秀吉以外も試みてはいたんですけど秀吉ほど成功しなかったんで記録に残らなかったのかな~と思います。

そんで結果的に秀吉の十八番みたいなイメージになったと、勝手に考えてます。

 

離間策なのかどうかは置いといて別格の松永さんは三好政権下で大国の大和国を任されてます。

 

1国まるまるを完全支配できてたわけじゃないんですが、いわゆる「切り取り次第」。

これは他の畿内の大国を任されていた実休さんや十河さんらと同じ扱いです。

やはり幕府だけでなく長慶本人にとっても松永さんは親族と変わらないレベルの存在だったということか・・・!

 

あと、松永さんには「松永長頼まつながながより」っていう弟さんがいて、この人もお兄さんに劣らぬ才覚人だったようでして丹波国たんばのくに(現京阪神3府県の交わるあたり)を任されていました。

 

切り取り次第とは言っても彼らの実力をもってすればそのうち切り取れたでしょう。

残念ながら切り取ってる最中で例のサスペンス、「三好家連続不審死事件」が起こり実現には至りませんでしたが。

 

暗転

そして松永さん以外の三好家キーマンの皆さんが「偶然にも立て続けに怪死をとげた」ことにより、三好家内で主権を握る為のお家騒動が起こります。

 

主導権を取ったのは通称「三好三人衆」、三好長逸・三好宗渭・岩成友通のお三方。

 

三人衆は三好の跡継ぎ「三好義継みよしよしつぐ」を擁立しますが家中で泥沼の対立が長引き、さらにはうっかり足利将軍(13代目)を殺す大事件を起こします。

 

そして義継はトリオの傀儡であることを良しとせず三人衆と決裂、松永さんを頼ってその懐へ逃げ込みます。

義継さん、後継者としてみんなから心配されてた割にしっかりしてますね。

自主性があって。

後年、対織田戦で見せた立ち回りも思慮に欠ける一面はありつつ、勇気と義侠心に富む人物像が想像できます。

この人の下に三好家が団結できてればもうちょっと違う歴史もあったのでは?

 

次なる天下人の上洛

この時点で十分にグダグダの三好家ですが、間の悪いことに将軍(15代目)から要請されたという大義をもって織田信長が上洛してきます。

このタイミングで!

 

一説には織田信長が成功できた要因の1つがこの時期の将軍家・三好家の家中大混乱とも言われます。

信長側は僥倖だったでしょうが三好家側には最悪の出目です。

結果として将軍家とまとめて信長に滅ぼされるわけですから。

 

信長上洛に際して敵対勢力を駆逐する為か、あるいは将軍の敵になりたくなかったのか松永さんと義継は信長に味方しました。

味方っていうか実質的に信長に降ったんですけど。

 

自身と主家の滅亡

その後、松永さんは将軍(ホントは信長)から大和の一地方を任され、とりあえずは落ち着きます。

 

そして信長は期待通りキッチリ三人衆を蹴散らしてくれましたが、なんと三好義継まで殺してしまいます。

信長は室町幕府の救世主として上洛したはずなんですが上洛するなり将軍と敵対関係に陥ります。

義継が信長と敵対した将軍をかばったんですよね。

義継と将軍は義兄弟になりますし。

 

義継の最期は三好の名に恥じない勇壮なものだったと伝わっています。

 

三好政権復興の望みが絶たれた為か、将軍への忠義を貫く為か松永さんは足利将軍が発した打倒信長の声に応じて信長に対して2度兵を挙げます。

 

1度目は破れて降伏、2度目は生きる意味を見失ったのか信長が降伏勧告をしたにも関わらず自害し果ててしまします。

 

以上、松永さんの生涯でした。

 

近年のキャラ変更について

それでこの松永さん、昔は戦国時代の悪役代表みたいな人だったんですよ。

 

暗殺と謀反が趣味でセックスの実用書を著し、悪事の限りを続けて最後は爆死するっていうキャラだったはず。

爆死ってのは比喩ではなくてホントに火薬でドカンと爆死。

物理的に爆死。

戦国時代らしからぬ派手な死に方。

もちろん三好家一家連続殺人事件の犯人。

なんなら将軍殺しも犯人。

 

筆者は各メディアや信長の野望でそう習ったんですけど。

同じ境遇の方も多いと思うんですけど。

なんか最近それが違うんですって。

 

まことに遺憾ながら最近の松永久秀は三好家に忠義を尽くし続けた忠臣で、悪事のほとんども実は濡れ衣だったことになってきております。

 

由々しき事態です。

信長が革命児ではなく普通に保守派だった説以来のどんでん返し。

従来のイメージを根底から覆す新説。

 

・・・う~ん、別にいいけどつまらないですよね。

ワルがいない物語って。

いや歴史上に実在した出来事を物語っていうのもなんですが。

 

「主家に忠義を尽くし続けた名将」。

 

良い響きですけど、そんなんどこにでもおるやん?

 

キャラが立ってない。

唯一無二のヒールっぷりが松永さんの魅力だったのに。

 

こうやって研究が進んでロマンが消えていくのって本当切ない。

これからもどんどん古来からの定説が新説に塗り替わっていくんでしょうね。

 

個人的に戦国時代って歴史を脚色して創作された物語と思ってるので。

多分、江戸時代の最初期あたりから400年以上かけて日本人が嘘を重ねて作り上げた先祖伝来の夢物語。

”源平”も”幕末”も”現代”でさえも事実を誇張したものっていうのはそうなんでしょうけど、「戦国時代」って別格じゃないですか?

ロマンの塊じゃないですか??

 

信じたいものを自由に信じたらいいってこともあるのかも知れませんけど。

専門職の研究者から事実はこうだったと水をさされるとどうしても少しは冷めますよね。

 

 

 

以上、三好家の関係者のお話でした。

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