こんにちは。
100選の2回目は三好長慶です!
政戦に卓越した能力を発揮しただけでなく、鋭敏な経済感覚や水軍の運用、さらには文化人としての教養も抜群な万能超人!
前回の毛利元就に続き筆者の愛する瀬戸内を本拠にする戦国大名。
本拠ではないか。
本拠というかルーツ?
長慶自身は生涯のほとんどを京周辺で過ごしてるので。
阿波国(現徳島県あたり)出身で天下に影響力があった人物というのも珍しい気がしますね。
四国ってあんまり有名人いないような。
特に徳島・香川。
筆者が知らないだけかな?
それでは、どんどん三好長慶を語っていきますね!
三好長慶ってこんな人
「理世安民」、あんま聞きなれない言葉と思うんですが三好長慶が掲げてたマニフェスト。
意味は世を治め民を安んじるってことです。
いや教養人だけあって使う言葉が違いますね。
ご立派な標語に負けないほど長慶自身も仁愛の将だったようです。
多分、戦国時代基準で。
あと長慶自身は戦闘民族として名高い三好氏らしくバイオレンスな人間だったけど三好家の良心、弟の”安宅冬康”に人の道を説かれてから心を入れ替えたという話もあります。
そんな愛に満ち溢れた男、長慶さん。
現世に現れた地獄とも言うべき戦国時代の京を治める大快挙を成し遂げます。
理世安民を有言実行したわけですね!
下剋上の体現者
「下克上」。
下が上に克つってことなんでしょうけど、戦国時代の代名詞みたいになってますよね。
この言葉。
戦国以外でもいくらでも起こってると思うんですけど、下剋上なんて。
それでも何か戦国時代固有の言葉な気がします。
”応仁の乱”の時に誰が書いたとも知れない落書きに”下剋上”って言葉があって、そのまま時代?世相?を表す言葉として定着したみたいです。
で、その下剋上の代表例としてよく挙げられるのが「北条早雲」と「斎藤道三」。
2人とも最近また実像とイメージが乖離してきてますけどね。
研究の結果、新事実が色々発覚したようで。
今日、取り上げる三好長慶さんもそんな下剋上という時代のトレンドに乗った1人です。
それもかなりのビッグウェーブに。
100年以上にわたる戦国時代、本当に日本中どこでも下剋上なんて起こりまくってたんですけれども。
三好長慶は”織田信長”登場前の戦国時代で1番大きな下剋上をやり遂げた人になるんじゃないでしょうか。
「管領」っていって時代がかった呼び名の肩書があるんですけどね。
中世日本、特に室町中期頃はこの世の最高権力者と言っていい存在です。
長慶のピーク時はこの管領様も征夷大将軍も完全に長慶の下でしたからね。
京という日本の中心で政権を奪取した大成功者、それが三好長慶です。
長慶に比べれば一地方の君主でしかない北条早雲や斎藤道三は全然小物ですね。
そのぐらい長慶はすごいんですよ!
もうMr.下剋上!!
ちなみに下剋上の最大の成功者は三英傑ですけど。
史上2番目に有名な筑前守
まずはプロフィールを。
- 出 身 阿波国(山城国、または摂津国説もあり)
- 生 没 1522年生誕~1564年死没
- 拠 点 飯盛山城、芥川山城等
- 肩 書 筑前守、修理大夫、摂津守護、相伴衆等
拠点や肩書は主なものを記載してます。
有名なのは「筑前守」の名乗りかな?
三好長慶と言えば筑前守って人も多いと思います。
”羽柴筑前(豊臣秀吉)”の次に有名な筑前守じゃないでしょうか。
・・・”前田利家”の方が有名か?
小早川もいるな。
・・・・・・・・。
まあ、有名な筑前守の1人ってことで!
エキストラからメインキャストへ
この三好長慶、近年は再評価の機運が高まっているようです。
「三英傑に先んじて天下を取った人」として有名になってきましたね!
もう最近は三好長慶と言えばこのフレーズ。
ちょっと食傷気味・・・。
いつ頃からこんなんなったんだろ。
本当に東北から九州まで影響力のあった三英傑と比べるまではどうかと思いますが、京とその周辺一帯を抑えたのは事実です。
一昔前は「三好家」というのは織田信長が上京した前後にさらっと蹴散らされる雑魚のみなさん。
信長や松永久秀にいいようにあしらわれる小物。
三好長慶や、その一門衆も信長上洛前に死没していて、一般的には「誰?」って感じでしたからね。
残念ながら戦国時代のどんな大物も戦国の主役たる三英傑と絡んでなければメディアでの扱いはマイナーになりがちです。
以前から長慶自身の評価は決して低いものではなかったんですけど、やっぱり三英傑や武田信玄・上杉謙信あたりに比べて格落ちというかマイナーなイメージでした。
長慶や三好家の存在が戦国ファンの間で大きくなってきたのって、ここ10~20年ぐらいかなあって思いますね。
それが今や三英傑の先輩みたいな雰囲気になってきているのは1ファンとして喜ばしい限りです!
三好長慶の生涯
本当に?12歳で大戦の調停を執った早熟少年
長慶は10歳ぐらいのときにお父さんが戦死して三好の家督を継いでます。
そこで絶対に語られるのが、長慶が「細川晴元」と「一向宗」の和睦の調停を行ったこと!
先にこの2大勢力がどれだけ大勢力だったか確認してみましょうね。
細川晴元
まず、細川晴元ってのは「管領」といって室町幕府では足利将軍様に次ぐ地位の凄く偉い人です。
16世紀の戦国時代にはもう将軍様なんてお飾りでしかなかったので京の実質的な最高権力者。
戦国時代に”細川さん”ていっぱい出てくるんですけど、室町時代の超名門一家で一族に連なる人間の数も多いんですよ。
奥州から九州まで細川さんだらけ。
ちなみに(戦国ファンには)有名な”細川幽斎”・”忠興”親子もこの細川さん一族。
晴元の家から見れば分家の1つに過ぎないんですが。
それでも超名門出身みたいな顔して戦国モノに登場してきますけどね、あの親子。
親の方は正式に細川とも名乗らなかったぐらいだったのに。
まあ”織田”や”松平”なんていう東国の一地方の片隅でゴソゴソしてた家とかに比べれば十分に名門なんでしょうけれど。
”木下”に至っては並べて語ることさえ憚られる・・・(ノД`)・゜・。
とにかく、それだけ室町時代の細川家はすごかったんですよ!!
特に晴元の生まれた「管領細川家」とか「京兆細川家」(京兆ってすごい名前、数字の桁のこと?)とか呼ばれる細川家はその中でも第一の由緒正しき血統のお家柄。
年替わりで主権者が変わってた当時の京でも「管領 細川晴元」は一時代を築いた権力者と言っていいんじゃないでしょうか。
(新説で「実は晴元は管領じゃなかった説」があることは内緒(/ω\))
実はこの超名門の細川晴元さん、長慶がわずか10歳で三好家を継ぐハメになった元凶です。
長慶のお父さん、「三好元長」を殺してるんですよ。
殺したっていうか嵌めた可能性が高いっていうか。
まあ殺人幇助です。
長慶のお父さんは細川家重臣にして、晴元を細川家の当主にした大功労者なんですけどね。
いつの頃からか2人の心はすれ違い、邪魔に思った晴元は長慶パパさんを裏切ります。
ある日、元長(パパ)派軍と晴元派軍はとうとう戦になりました。
パパ側が優勢になると、あろうことか晴元は第三勢力の”一向宗”にパパを「仏敵」とけしかけます。
かの有名な戦国大名たちを恐怖と混乱に陥れた一向宗に。
パパは一向宗のライバル宗派に肩入れしてたみたいなので事実無根というわけでもないんですが。
かつては名うての名将として鳴らしたパパも背後から大量の一向宗に襲われてはひとたまりもありません。
嘘か真か一向宗って一地域に数十万単位の兵力を動員できたようですから。
100万石の大名でも最大動員兵力はせいぜい数万単位と言われる中、一向宗のそれは桁が1つおかしいですね。
逃げ込んだ寺を雲霞のごとく湧き出た一向宗軍に取り囲まれたパパはもはや打つ手もなく自害してしまいます。
父を失った長慶は若年時代、父の仇の張本人、細川晴元の下で成長しました。
面従腹背、いつか父の仇をとろうと虎視眈々と狙ってたんでしょうか。
一向宗
次に、この時に細川晴元と敵対関係にあった「一向宗」。
こっちの方は有名ですよね。
”一向一揆”とか”本願寺蓮如”とか日本史の教科書にも出てきます。
宗教勢力が肥大化して大名を超える規模の自治政権を日本の色んな場所に構えていました。
かなりの大大名ともやり合えるぐらいの戦力を誇り、後年の織田信長や徳川家康もやられまくってます。
で、何でこの細川と一向宗の二大勢力が敵対関係にあったかというとですね。
上のように細川晴元一派が三好長慶の父親を討たせるために一向宗をそそのかしたんで、そもそも晴元と一向宗は味方同士だったんですよ。
でも暴徒の集まりみたいな一向宗を晴元がコントロールできなくなってきて、何やかんや相争う関係になりました。
炸裂!長慶裁き
昨日の味方は今日の敵、なんとも戦国時代らしい流れですが、こんな二大勢力がぶつかるとなると周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図。
誰もがこの2つが戦うのはやめてほしいと願ってました。
そこへ三好長慶登場です!
長慶は父親の戦死後、家族と地元の阿波国に疎開してたみたいなんですけどね。
いつの間にか海を隔てた京の地に舞い戻っていたようです。
舞い戻った長慶は細川晴元と一向宗の仲介人として立ち回った末に見事、両者を和解させました!
すごすぎない!?
この時、長慶は11~12歳頃の子供であり、本当にそんなことができたのかは不明です。
”三好笑厳”(長慶の叔父さん。縦横家っぷりに定評があり、三好本家滅亡後もしぶとく生き延びた)等が実務を行い、その際の名義人として三好の家長になる長慶の名前を置いただけという説が有力みたい。
記録も「長慶にその扱いを任せて」って短い一文が残るだけなんで実際のとこどうだったかは分からないんですが。
「わずか12歳の長慶自身が家来を使って和平交渉を取りまとめた。」
その方がファンとしては夢があって楽しいですよね。
仇敵の下で実務研鑽
華麗な周旋業務を果たし、三好家内外でその名が知れ渡った長慶。
その後、父の戦死で旧主の細川晴元とは完全に決別したようで摂津国(大阪府北部から兵庫県東端あたり)を拠点に晴元と争い続けます。
小学生か中学入学ぐらいのお年頃にして天下の管領様を敵に回して兵を率いるとは。
和睦調停の件に続いて相変わらず早熟さがヤバいですね。
ちなみにこの時点で長慶は元服もしていません。
正確には、この頃の呼び名はまだ長慶ではなくて童名の「千熊丸」とか「仙熊」と呼ばれていました。(読みは「せんくま」で良いんだろうか?)
元服してから初陣とか、初陣と同時に元服して10代前半で戦に出てる戦国武将って他にもいないではないんですけどね。
だいたい15歳ぐらいが目安です。
20歳過ぎてからなんて人もいますね。
落ちたりとはいえ、長慶って山城・摂津・阿波に支配地を持ち、管領の右腕まで務め上げた家のお殿様ですからね。
それが、こんな年少時から天下に係る戦の大将をやってるって珍しくないですか?
他にもそんな人いたんだろうか。
・・・あぁ、いますね。
相手方の細川晴元もそんな感じ。
しかも晴元の人生がそうなったのは三好長慶の父親にたぶらかされたせい。
他にも歴代足利将軍や畿内近隣の有力大名でローティーン時から戦争の大将になってる人たちいっぱいいましたね。
よく考えると。
どいつもこいつも早熟すぎ。
現代でこんなんやらせたら人権団体が大騒ぎしそう。
そんな早熟児の長慶は血気盛んに1年以上、晴元と戦っていましたが最後は仲直りして細川陣営に晴元の配下として加わります。
父の仇の下へ再び戻った長慶。
その胸中はどうだったんでしょうね。
味方となった以上、旧怨は洗い流し臣下として誠心誠意仕えようとしていたんでしょうか。
それとも―。
真実はどうあれ長慶は細川家の下で活躍していくことになります。
連戦連勝の快進撃で京を制する
VS.細川晴国
晴元麾下となった長慶の最初の活躍は”細川晴国”との一戦。
出ましたね。
この時期やたら繁栄していた細川一族です。
晴国は京兆細川家の当主。
畿内でも有力者の1人でしたが、兄を細川晴元と三好元長(長慶の父)の2人に殺されています。
そんなわけで晴国からすると当然、晴元は旧敵ですし三好長慶も父の代からの因縁があります。
この晴国さん、初戦は一向宗の力を借りて長慶たち細川晴元軍に勝利します。
しかし、敗戦に焦った細川晴元は一向宗と並ぶ武闘派宗教勢力、「法華宗」(この名前より日蓮宗と言う方がわかりやすいか?)を味方に付けて再戦に勝利、晴国は敗走します。
更には細川方の調略が功を奏したようで、先の戦いでは味方だったはずの一向宗もいつの間にか晴元側になり、孤軍となった晴国は摂津の地で自害してしまいます。
なんか長慶のお父さん、元長が晴元にやられた時を彷彿とさせる最期ですが、この戦果により細川晴元はますます勢力を強めることになりました。
晴元って一般的に三好長慶の敵役として有名なので、長慶にその座を追われた旧貴族のボンクラみたいな描かれ方が多いんですけど。
こうして見てるとなかなか戦闘力高いですよね。
三好元長と細川高国・晴国兄弟に勝ってますし。
この後も強敵たちと渡り合ってるので。
ピンチになると敵から寝返りが出たり宗教団体が駆けつけるところを見ると、戦場指揮より外交・調略に優れてたんでしょうか。
敵を取り込んだり第三勢力を動かすのは事前準備や情報収集に加えて人望や与えうる利益なんかが無いと難しいと思うんで、やっぱりそれなりの人物だったんでしょうかねぇ。
あんまり資料がある方ではないので実像は見えにくいですが。
この細川晴国戦では長慶も細川晴元軍の1将として活躍していたようです。
もしかしたら一連の調略も長慶が仕掛けたものだったかも知れませんね。
VS.木沢長政
「木沢長政」。
大和国(現奈良県)でトラブルメーカーと言えば”松永久秀”ですが、その松永久秀に先駆けて大和を荒らしまわった人。
元々は河内国の畠山家代々の重臣でしたが、やらかして出奔。
その後、畠山家とは繋がりつつも細川晴元にも出仕して細川高国・三好元長ら晴元の敵対勢力を滅ぼす過程で大功を立てます。
特に細川晴元の十八番、「宗教勢力を味方に付ける」。
数々の強敵を撃沈せしめた晴元の必殺技。
この宗教勢力とのやり取りに長政名義の書類がたくさん残ってるので、一揆勢力の担当窓口として活躍していたようです。
ということは、細川家でも相当大きな存在ですよね。
細川家のリーサルウェポンを管理してたってことですから。
木沢長政はさらに順調に成長を続け、ついには河内国・大和国の2国を掌握!
この頃には細川家や畠山家の家臣というより、独立した一大勢力となっていました。
しかし、どれほど力をつけようが一寸先の保証もないのが戦国の常。
細川・畠山に目をつけられてしまい一気に転落。
周辺勢力を敵に回し、囲まれた長政は滅亡します。
この長政も畿内の実力者でしたが、他にも実力者は色々といました。
長政討伐前後にも細川家は畿内の有力者たちと骨肉の争いを繰り広げ、一時的な敗戦はあれども武運が味方し連戦連勝。
そんな躍進目覚ましい細川方の主力として活躍したのが三好長慶です。
苦節十数年、この時の長慶はすでに畿内中にその実力が轟いていました。
VS.細川晴元
雌伏を重ね強大な軍事力を手にした長慶はとうとう、主家の細川晴元と雌雄を決します。
ここに長慶の親戚でライバル関係にあった「三好政長」という方が登場。
細川晴元は長慶より政長を贔屓し、長慶を疎んじる態度を見せ始めます。
ことごとく政長寄りの晴元に慈愛の男、長慶も流石にムカついたようで細川家を飛ばして将軍家や朝廷と直接やり取りし始めました。
ほぼ細川への宣戦布告です。
京周辺の徴税・人事・兵権等を三好長慶が行いはじめ、ついでに各領主たちも長慶を支持していました。
これを許せばもはや三好家が幕府も同然ですね。
細川ご自慢の管領職なんか名前だけ。
事ここに至り、遂に両者は激突します。
細川晴元と三好政長は近江国の雄、六角氏に援軍を依頼し兵力差で長慶を圧倒しようとします。
しかし、総力を集中させる早さは長慶が一枚上手でした。
兵隊にしろ作業員にしろ、人間を集める力って競合との勝敗を分けるほど大事な技能。
情報共有に状況伝達、連携する為の信用等。
長年の連戦で培われた長慶の実務能力は晴元を上回ったということです。
長慶に味方する畿内の諸勢力や地元阿波国から参戦した三好一門衆。
これらを電光石火で動かした長慶は間一髪で六角の到着を許さず三好政長を討ち取ります。
政長討ち死にの報せを聞いた細川晴元は足利将軍を連れ出して近江国へと敗走。
旧主にして父の仇である細川晴元を破った三好長慶。
ここに京はほぼ完全に長慶の手に落ちることになりました。
日本の副王
向かうところ敵なしの三好長慶。
めでたく将軍と管領を追い落とし、畿内の支配者となりました。
「三好政権」とも言われ10年以上、天下に君臨していたんですけど、
この時期の長慶を「日本の副王」とか呼ぶようです。
我らが”信長の野望”でもそう言われてるんで有名な呼び名だと思うんですが。
誰が呼んだんでしょうね?この変な呼び名。
変なんですよこの名前。
時代にそぐわない。
戦国時代に「日本」とか「王」なんて言うかな?
「日ノ本」は古代からあったそうですけれど。
後世にそう称せられたってことなんだろうか??
当時にそう呼ばれてたのなら呼んだのはポルトガル人かなあ?
本国に送る報告書に記してあったとか??
戦国時代の日本人が使う言葉ではないよな~。
そして「副王」って言葉、もはや日本語として違和感がある。
欧州系の言い方でしょこれ。
東洋的な王に正副があるのか?
仮にあるとして副が長慶なら正は誰だろう。
天皇?
将軍??
あ、「副将軍」てのは聞きますね。
水戸黄門紹介時の決め台詞にして、足利義昭が織田信長を口説こうとする際の名台詞です。
正式な役職かは知りませんが。
長慶が王ではダメなんだろうか。
で、さっきGoogle先生に誰が呼んだのか聞いてみたんですけど先生もわからないって。
「日本の副王」って検索したらひたすら三好長慶関連記事が出ますが、どれも名前の由来は触れられてない。
こんな有名なのに出所は不明。
気になるな。
歌連歌ぬるき者ぞといふ者の梓弓矢を取りたるもなし
そんな由来も不明な”日本の副王”として混迷極まる畿内を秩序立てた三好長慶。
もともと趣味だったのか、お付き合いの為に習い覚えたのか晩年は連歌に没頭します。
長慶は芸能の方も一流だったようで名歌と評される歌をいくつも残しています。
千利休や細川幽斎といったビッグネームからもリスペクトされていたようですし。
戦場から遠ざかり暇を見つけては文化人と歌三昧。
そんな長慶をぬるくなったと嘲った人たちへのメッセージが見出しの歌。
意味は「歌なんてぬるいものをって嗤ってるような連中なんか、実際に戦になったらどれほどのもんでもないよ」って感じかな?
言外に「自分をぬるいと思うなら試してみたら?」っていう自信がチラついてますね。
チラついてるどころじゃないか。
ストレートにそういう意味でしょうね。
歴戦の勇者である長慶のプライドが垣間見えます。
そんな三好長慶の最期は彼の覇業を支えた兄弟・愛息が次々と亡くなり、一人残った長慶も孤独にこの世を去るという哀愁漂うものです。
筆者はこの死に方嫌いじゃないんですけどね。
王の最期って感じで。
ヨーロッパや中国の頂点まで昇りつめた人間の最期で時々見るパターンなんですよこれ。
日本だと秀吉が近いかな?
秀吉には秀頼がいたので違うか。
ネガティブなイメージで語られがちな長慶の最期ですが、筆者は一代で王国を築いた王たるものの貫録を感じます。
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