こんにちは。
後編では池田・浅野両名の経歴を追ってみますね。
池田輝政の実績
まず、”池田輝政”については、やはり有名なのは「姫路城を造った人」ということでしょう!
“姫路城”抜きにイケテルは語れません。
あと、どこから手に入れたか「大包平」という史上最高傑作との声もある日本刀を所有していたことも有名。
姫路城も国宝ですが、こっちも国宝です。
さて、天下の名城として後世にも名高い「姫路城」。
実は姫路城は輝政が造ったわけではなく昔からありました。
播磨の赤松・小寺氏の代々の居城ですし、秀吉が中国地方へ侵攻する時には主要拠点として使っていましたからね。
先ほど輝政を「姫路城を造った人」呼ばわりしたのにすみません。
じゃあ何で「池田輝政=姫路城」なのかというと、輝政が姫路城をリノベーションしたからです。
姫路城って日本有数のメジャーなお城ですし、実際に行ったり写真や映像で見たことがある人も多いと思います。
17世紀の初めに輝政が「そこまでやるかレベルのリノベーション」をしたことにより、兵庫の一城に過ぎなかった姫路城が、21世紀を迎えた現在でも国宝とされ、更には世界遺産登録までされているわけです。
戦国~江戸期、もしくはそれ以前に造られたお城って大体みんな保存できてないんですけどね。
戦でやられた時に相手方に燃やされたり、第二次世界大戦時に空襲を受けたりしてますから。
明治時代には「廃城令」という全てのお城ファンを号泣させる出来事もありました。
あとは経年劣化によりメンテナンス費用もなくて解体するしかなくなって壊したとか。
安土城も大坂城も現存していません。今ある大坂城はレプリカですね。
でも姫路城は保守保存の為に何度も(本当に何度も)手入れされただけで、ほぼ当時のままの姿で現存しているといわれてます。ラッキーでしたね♪
なんか池田輝政より姫路城の話ばっかになってきたので、以降は輝政の武勇伝を。
輝政が最初に活躍したとされているのは、摂津戦ですかね。
織田政権の晩年、織田軍有力武将で大坂方面を統括していた“荒木村重”という人が敵と手を組んで織田家を裏切りました。
その裏切り行為制裁の為に織田家緒将が摂津へ向かいます。
戦場となった摂津へ輝政も乗り込み、敵を5人殺す武勲をあげて信長も大喜び―、これが輝政最初の活躍でした。
うん?
・・・怪しいなこの話。
輝政は当時15歳ぐらいのはずですけど、そんな少年が、時代劇みたいにバッサバッサと5人も殺れるかな?
輝政は身体的にも小さかったらしいし。
仮にやれたとして、池田家のご子息の1人という身空である輝政がそれを行うことを周りのお付きが許すかな?
逃げまどってる無防備な敵を背後から斬りまくったのかな??
実際は輝政の部下がやって、輝政はその指揮を執ったか。
つまり、“チーム輝政”が挙げた手柄が首級5つだったのか。
筆者はエピソードが事実であれば、この線が濃いかと思います。
まあ司馬遼太郎でもあるまいし、深く考えずにいきましょうか。
別に良いか5人ぐらい殺してても。
1人で50人、100人ぐらい殺すナメた剣豪物語とかいくらでもありますもん。
紀元前から現代に至るまで、武勇伝を盛るのは基本ですからね☆
はい、こうして摂津戦を皮切りに、輝政は “山崎”・“小牧、長久手“・”紀州“・”九州“、最後に”小田原”と、大きな戦にはことごとく参戦し、活躍した。
らしいです。
摂津の時みたいに具体的な戦果がよくわからないんですよねえ。
それを言ったら輝政以外の連中も似たり寄ったりでしょうけど。
おそらく言われた戦に参戦して、所領並みの動員をかけて、人並みの仕事をして、そこそこの評価を得ていたんでしょうね。
ほとんどの大名が。
まあ10年以上もこれだけの激戦に参加し続けて、生きながらえていること自体がすごいことなんだろうなあ。
実際、輝政のお父さんとお兄さんは戦死してますからね。
対徳川戦の“小牧・長久手”で。
この時は輝政自身もだいぶヤバかったっぽいです。
小牧・長久手戦でもしお兄さんが生きのびていたら輝政、ひいては池田家がその後どうなったのかは興味深いですね。
お兄さんが死ぬまで輝政は池田家の世継ぎではありませんでしたから。
そんなこんなで、輝政は”歴戦の勇士”と呼ぶに値する青年期を送っていました。
あと、輝政は朝鮮出兵は参加してません。
領地が東国だったのと、”豊臣秀次”(秀吉の甥ごさん、関白殿下)の関係で。
“小田原”の次の戦場は輝政にとって最後の戦場となる“関ヶ原”です。
浅野幸長の実績
ここいらで浅野さんサイドも見ていきましょうね。
”浅野幸長”は池田輝政や他の七将と比べるとかなり若く、年長の福島・加藤あたりとは15歳ぐらい離れています。
そんなわけでデビュー戦もかなり遅め。
秀吉の天下統一連戦の実質最終戦である北条征伐、「小田原の役」が初陣です。
当時、15歳の幸長はお父さんと一緒に出陣し、北条氏の誇る”岩槻城”を攻め落として秀吉からも褒められるほどの大手柄を立てます。
「大型ルーキー、初戦にして期待に違わぬ実力を魅せる」といったところでしょうか。
あ、浅野さんは大型ルーキー枠だったと思うんですよね。
筆者が勝手に思ってるだけですけれども。
親が親ですし、浅野幸長が生まれてから初陣の時期って秀吉の戦歴の黄金時代になりますし。
・・・あんま関係ないか。
えー、じゃあ、なんか幸長はデビュー戦前、元服そこそこの子供のクセに”従五位下”(天皇からもらう朝廷官位で昇殿OKのいわゆる「殿上人」、かなりの高官)を与えられたりしてます。
さすがの浅野パパでも単独で朝廷人事をイジれたってことはないでしょうし、秀吉かその周りの肝入りで任官したんでしょうね。
もちろんパパ効果もあると思いますよ?
あるでしょうが、それを差し引いても周囲からの期待値の高さがうかがえます。
そんな感じで華やかにデビューした幸長は小田原に続いて朝鮮に出征します。
明攻めですね。
「文禄の役」です。
ここでも幸長は結構な活躍だったようです。
天下人となった秀吉の号令一下、日本中の大名が渡海し、そこはまさに戦国生き残りのツワモノ達が大集結していました。
そんな錚々たる顔ぶれの中にも埋もれず、幸長は“加藤清正”や“伊達政宗”と協力し、次々と手柄を立てていきます。
中でも幸長の武名を上げたのが、「鉄砲射撃」。
幸長は“稲富一夢”(鉄砲の達人、目隠しして的を撃ち抜いたとかいう嘘くさいエピソードがある)に師事して砲術を学んでまして、その習い覚えた自慢の鉄砲術で明の大軍に家来衆とともに連続射撃を行い撤退させたとのこと!
その時、あまりに幸長が連射した為、銃身が熱を帯びてキツネ色になったとか。
キツネ色ってどんな色なんだろ。
こんがりキツネ色に焼けたとかいう茶色っぽい色なのか、それとも”ごんぎつね”の挿絵みたいな黄色っぽい色なのか。
前者かな?多分。
小田原に続き、この活躍。
おそらくこの時期には幸長は周囲からも「やるなアイツ」と思われていたに違いありません。
続く第2回明攻めの「慶長の役」ではそんなに目立った活躍はありませんね。
この頃は幸長に限らず、もう日本軍みんな厭戦気分が蔓延してたみたいです。
深刻なモチベーション低下。
どんなに命懸けで戦って勝利しても報酬が海外の土地ではね。
朝鮮の農耕に向かない痩せ土地なんかいらないというのが本音でしょう。
日本本土との行き来や連絡も大変。
大変どころか命懸けかな?
慣れない渡海先でホームシック気味の将兵も少なくなかったようですし。
浅野幸長もまた、池田輝政同様、次の活躍は“関ヶ原”へと持ち越しです。
関ヶ原とその晩年
それでは、お2人の最後の戦いの場となる”関ヶ原”を見ていきます!
ここでは両名とも大した活躍はありませんね。
敵軍に忍び込ませたスパイがちゃんと動くかを監視していたそうです。
1日中。
いや関ヶ原って朝からはじめて昼前には終わってたみたいなんで数時間かな?
でも戦争中の大半。
裏切る予定のみんなが予定通り裏切って勝ち確になったところを怒涛の勢いで追撃。
おいしすぎる。
池田さんの方は一応、関ヶ原の前座戦で岐阜城一番乗りの大手柄を立てていますが。
同じ七将の福島・黒田あたりは、関ヶ原本戦にて徳川方の主力として激戦の真っただ中に身を置いていたのと比べるとやはり見劣りしますね。
この安全な仕事で報酬はトップクラス!
徳川一門と変わらないレベルの厚遇っぷりです。
七将(あるいは十将)のメンバーは戦後、報酬として広大な領地を得ますが、池田・浅野以外はだいたい西日本、それも西の端の九州に領地をもらっています。
危険視されてたってほどでもないでしょうが、完全な味方とも思われてなかったんでしょうね。
戦前からの準備も含めて関ヶ原のMVPと名高い”黒田長政”でさえ石高こそ高かったものの、もらった場所は九州でした。
まぁ黒田家は戦前から領地が九州でしたし、石高が激増すれば周囲への見栄も悪くなかったでしょう。
単純に黒田家の領地は豊かな土地でしたし。
長政は武辺に加え、思慮や外交感覚も相当のものがあったっぽいので、敢えて九州、つまり中央から見て遠隔地にとどまることで徳川に恭順姿勢を見せたとも考えられます。
・・・バレバレですが筆者は黒田長政が割と好きです(〃ノωノ)
次は長政の記事書きたいですね!
そして話を戻して池田・浅野の方。
筆者の想像でしかありませんけど、徳川首脳陣は関ヶ原本戦の活躍関係なしに2人には播磨(兵庫)・紀伊(和歌山)の重要拠点を任せることを決めていたのかと思います。
「この2人は他のみんなとはちょっと違うんだぜ☆」って感じで。
大坂の陣
その後、戦国時代のフィナーレ(というか江戸時代の最初期というか)である「大坂の陣」ではどうだったんでしょう。
実はこの2人は大坂の陣が始まる前に死んでいます。
有名な逸話として、関ヶ原から10年ぐらい経った頃に”徳川家康”と”豊臣秀頼”が直接顔を合わせるイベントがあったんですが、そのイベントの後、数年のうちに徳川の有力大名かつ豊臣とも縁が深い、池田・浅野と”加藤清正”の3人が立て続けに病死します。
あまりのタイミングの良さに今日まで、病気ではなく徳川方による暗殺説がささやかれていますが真偽どうでしょうか。
筆者は「普通に病死が続いただけ」と思っていますが。
当時、関ヶ原でほぼ徳川の天下が決まり、江戸に幕府を開いて10年ぐらい経っています。
太閤殿下のご威光も今は昔。
彼らも大身であり一族や家臣、さらにはその家族や家来と大勢の人間を養う責任を背負っています。
そんな彼らが今更、”豊臣の御恩”を動機に大坂の陣で徳川へ対し何かしらの邪魔をするだろうか?
戦後に秀頼の助命嘆願とか?
2人とも豊臣に対して思うところはあったでしょうが、個人的な感傷に過ぎず、天下の主たる徳川将軍家へ敵対するような行動は起こさなかったでしょうね。
自分1人のことだけ考えていればいい在野の浪人とかならまだしも2人はすでに何十万石の大大名。
さすがにそこは弁えていたと思います。
さあ、長々と書いてきた池田輝政と浅野幸長。
最期がちょっとあっけないようなドラマチックなような。
まあそんなわけでこの2人はコネもあったんですけど、それ以上に実力派だったんですよ、というお話でした。
ではでは(=゚ω゚)ノ
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