34. 戦国名将100選 Vol.1 毛利元就

信長の野望

マイナーな戦国武将のことなんて書いても誰も見てくれないことがわかってきたので(遅い?)メジャーな人たちを書いていこうと思います。

 

池田輝政いけだてるまさ浅野幸長あさのよしなが”の記事あたりでも他のマイナーな人たちと比べたら全然読んでくれてますからね。

やっぱブログやってる以上、ちょっとは読んでもらわんことにはさみしいです。

 

それなら三英傑(信長・秀吉・家康)や大河ドラマに取り上げられるクラスの人を書かないとなって思って、名将百選を書いてみます。

 

本当に100人もやれるのかは別の話で、記念すべき第1回はこの方!

中国地方の覇者、「毛利元就もうりもとなり」!!

キーワードは「三本の矢」。

 

戦国時代に興味ない人でも「名前は知ってる」って人も多いでしょうか。

安芸国あきのくに(広島県あたり、別名芸州)の弱小領主から成り上がり、中国を制した英雄。

約100年にわたる戦国時代に三英傑以外で最も成功した人と思われます。

 

戦国最強の実力者

毛利元就は、「弱小領主出身」・「次男」・「裏切りからの貧困少年期」の三重苦を受けながら、圧巻の人間力により、中国地方を制覇しました。

 

彼は智将のイメージが強く、”信長の野望”ではほとんどの作品で知力科目最高得点をマークしています。

最近は「謀神」とか呼ばれ出してましたね。

昔はそんなガキっぽい呼ばれ方してなかったと思います。

 

智将かなあ?

智将と言えばそうかもしれませんが、筆者は「知略優れる」なんてのは名将が名将たる為の絶対条件の1つと思いますし、戦国の世に名をはせた名君のほとんどは智者だったと思います。

「智・仁・勇を兼ね備えた世紀の名将」、筆者的に毛利元就ってそんなイメージです。

 

元就は用意周到な事前準備とリスクを恐れない積極性をもって、最終的には八つの国を支配する大大名となります。

これは元就死去の時点で全国の大名の中でも最大の統治面積でした。

 

まさに猛者、百戦錬磨のその戦歴

通算戦績 勝率1位

昔の”歴史人”かなんかの雑誌に載ってたんですが、元就の生涯戦績って勝率で全戦国大名1位らしいです。

内訳は58戦49勝9敗で、なんと勝率8割4分!

戦前のタイガースみたいな数字になってます!!

 

 

ちなみに最多勝は”豊臣秀吉とよとみひでよし ”で100勝以上(!)してたと思います。

(どう数えたんだろう?秀吉って元就や信長みたいなお殿様育ちじゃないんで、前半生の戦歴って不明だと思うんですけど。後半生だけで100戦以上の公式記録があるんだろうか?)

 

58戦か・・、普通に考えて多すぎです。

年間1戦以上のペースですから。

人生のほとんどを安芸の小豪族として過ごした元就は成り上がるまでは、そんなに動員力もなかったでしょうし、とにかく戦争したらリソース消費しますしね。

これは多分「それ戦に数えて良いの?」っていうショボい戦も多数含まれてると思います。

 

あと、現役期間も長い!

元就って20歳で初陣し、70過ぎまで戦場に出てたような人でして、戦国大名と呼んで差し支えない存在の中では、これに対抗できるのって徳川家康とくがわいえやすぐらいかな?(ちなみに家康は元就よりもっと長いよ!)

半世紀以上のキャリア。

これもすごい記録ですね。

 

三大奇襲の一、厳島の戦い

戦国、あるいは日本三大奇襲と呼ばれる3つの戦があります。

「桶狭間の戦い」、「河越の戦い」、そして毛利元就と陶晴賢すえはるかたが対戦した「厳島いつくしま

の戦い」です。

 

いずれも勝者側が圧倒的な兵力差を覆しての奇跡的勝利を収めた戦。

(例によって「研究」という名の公式ネタバレの為に実態はそこまで劇的なものではないということになりつつありますが。事実検証ってロマンの敵)

 

背信と疑惑の戦前工作

まあどこまでが史実かどうかを気にするのは専門家に任せてですね、この”厳島の戦い”というのが通常、元就、または毛利家のハイライトとして扱われます。

 

この戦いで毛利家の相手は大内おおうち家。

 

1500年代の半ば、中国から北九州にかけてこの大内家と尼子あまご家という全国屈指の強大な2家がのさばっていました。

大内と尼子の2家に挟まれた中小豪族たちは時には西の大内に、また時には東の尼子の味方に付いて辛うじて家名を保っている状態。

毛利家もこの2家の影響下にあった諸家のうちの1家です。

 

そんなジリ貧の状況にあって、元就に1つの契機が訪れます。

大内の有力家臣の1人、”陶晴賢”が九州の大名と手を組み、当主の”大内義隆”おおうちよしたかを攻めて大内家を実効支配したんです。

この謀反に不満を抱いた他家の大名たちは大内家(というか陶家)に反抗します。

 

元就も反抗した為、毛利は大内から攻撃されることになりました。

ところが流石は元就、カウンターで大内軍を敗走させると、そのまま安芸国の大内領を攻め取って安芸一国を支配下に治めます!

 

その間、東の有力者、尼子家は何をしていたかというと「お家騒動」。

尼子の一門に連なる有力家臣団とそれを危険視した尼子当主が尼子家を真っ二つに割って大喧嘩の真っ最中。

結局、家臣団は粛清され騒動も終結しますが戦時の主力でもあった家臣団を失った尼子はこの好機に動くことができませんでした。

 

ものの話によると尼子の内輪揉めも元就が仕掛けたものと言いますが、そこまでは流石にどうでしょうね。

まあ世間一般の認識では元就ならやりかねないという印象だったかもしれませんけど。

 

実際、多くの戦前工作を毛利は陶に仕掛けてだいたい成功してます。

 

大きかったのは元就が大内家の重臣を2重スパイに仕立て上げ、それが露見した為、重臣は殺されます。

これにより大内は力を削がれると同時に、家中でも誰を信じたらいいのか分からない、互いに疑心暗鬼の雰囲気になったでしょう。

 

更に元就は毛利の旧敵で、裏切る動機十分の毛利家臣から大内へ偽の内通連絡を取らせたりもしています。

ここまで揺さぶられては西国の王たる大内家も、とても士気軒昂とはいかなかったことでしょうね。

 

 

兎にも角にも大内家と反大内勢力が、がっぷり4つで戦う構図が出現しました。

 

反大内の盟主は当然、毛利元就その人です!

(村上水軍?そこ気になる??話がそれるんで気にしないでください)

 

ここで安芸を得たことに満足し、大内と講和して、この機をみすみす逃すような人間ならば元就の名は後世、ここまで大きなものにはならなかったでしょう。

 

毛利躍進の大一番

「細工は流々、あとは仕上げを御覧じろ」

 

厳島に集結した大内軍、これから大軍を以て毛利領に攻め込もうと束の間の休息を得ていた時、すでに毛利軍と協力者たちは大内軍を取り囲んでいました。

 

毛利軍は夜陰にまぎれ全軍で大内軍に乾坤一擲の夜襲を仕掛けます!

 

 

大混乱の大内軍、大将 陶晴賢は勝機なしと見て島から出る為の船を探し回ります。

ところが一隻の船も見つかりません。

 

完全に毛利に退路を塞がれていたのです。

遂に観念した晴賢は自刃し、世紀の大決戦”厳島の戦い”は幕を下ろします。

 

戦後、大内家は遺臣たちが抵抗を試みるも時流は毛利側にあり衆寡敵せず、3年ほどでかつての大内領は毛利家の支配下におかれました。

 

こうして安芸どころか尼子領を除く中国地方と北九州の一部を手に入れた毛利家は一気に巨大化し、自他ともに認める西国の雄へと駆け上がります!

 

人材育成にも手腕を発揮、傑物揃いの一族達

ストイックすぎる教訓

元就が嫡男の隆元たかもとに説いた教えとして伝わっている言葉があります。

「能、芸、慰め、何事も不要。武略、計略、調略こそが肝要。はかりごと多きは勝ち、少なきは負ける。」

 

すごいシビア・・・。

酒や女、芸能関係、全部いらないものってことか。

そんなことより敵をどうやって嵌めるか考えてろ、と。

スマホなくなったら絶望するような現代っ子には考えられないぜ。

 

他にも元就が子供や孫、領民たちに残した教訓は多く、その教えが毛利家を繁栄させ、近現代においても長州藩が日本を主導したことにも少なからず影響しているのではないでしょうか。

 

毛利の矢は三本だけではない

「毛利家三本の矢のおしえ」

元就の正室の3人の息子たちはみな優秀でしたが、性格がそれぞれ違う3人を心配した元就が臨終の前に3人を呼び寄せ言い聞かせます。

「仲違いせず3人で協力し合いなさい。1本の矢は簡単に折れるが3本集まればそうもいかない。」

 

・・・っていう毛利家の代名詞的な有名エピソードです。

これまたフィクションですが(元ネタはある)。

 

正室の子3人(隆元・元春もとはる隆景たかかげ)がそろってひとかどの人物だったのはその通りですが、元就の一族には3人以外にもたくさんの優秀な人物がそろっていました。

 

全員は紹介できないので、以下、特に有名な人たちをご紹介。

 

  • 毛利輝元もうりてるもと:長男隆元の長男、元就から言うと孫。五大老の1人で”関ヶ原の戦い”では西軍の総大将。
  • 毛利秀元もうりひでもと:嫡孫輝元の従兄弟で養子、元就から言うと孫。”関ヶ原の戦い”では毛利軍の現場責任者。輝元の実子で初代長州藩主の秀就より人望があった。
  • 毛利元清もうりもときよ:元就の四男。若年時は対織田戦線の先駆け、晩年は毛利本家のNo.2。三男の隆景とは親子ほど歳が離れている。
  • 毛利秀包もうりひでかね:元就の末子。一族の代表的武士である次兄の元春に比せられた武勇の士。天下人の秀吉もお気に入り。甥の輝元より15歳ぐらい年下。
  • 吉川広家きっかわひろいえ:次男元春の三男。元就から言うと孫。関ヶ原の戦いでは毛利家の為に毛利家の意向に従わなかった。毀誉褒貶あるが毛利家新世代の中心を担った1人。
  • 毛利慶親もうりよしちか:「そうせい候」。元就から言うと12代後の子孫。幕末期の激動の中から明治維新後まで藩主を務める。吉田松陰・大村益次郎等の人材を起用し、彼らの考えに任せた。

 

元就の登場以降、毛利家には雲霞のごとく人材が現れます。

元就の薫陶著しいな。

 

元就の生涯

乞食若殿

毛利元就は、安芸の国人領主の次男として生まれました。

父親は大内家との争いに疲れ、まだ幼かった元就の兄に当主を任せて隠居してしまいます。

このダメ親父は幼児期の元就ら家族を連れて移住しましたが、酒に溺れ、元就が10歳のときに病死してしまいます。ダメダメですね。

 

その後も元就は城に住んでいましたが、当主である兄が不在だった為、その隙を狙った家臣の井上元盛によって所領を奪われ、城から追い出されてしまいました。

住みかを失った元就はあばら家で起居し、「乞食若殿」と呼ばれるほど落ちぶれてしまいましたが、養母をはじめ、人の情けに助けられて何とか生きながらえていたようです。

 

その後、長じた元就は兄が急死した後、まだ幼年であった兄の子を助けて毛利家を盛り立てます。

しかし、その兄の子も夭折したり、家長不在で起こった跡目争いの中、弟の命を奪うことになったりと激動の青年期を送ります。

この頃には各地の戦で連戦連勝の元就の智勇は周囲に知れ渡っていたようで、まわりに推戴されるように毛利の家を元就が継ぎ、混乱に次ぐ混乱にあった毛利家も少しずつ安定しはじめました。

 

大器晩成、齢五十にして立つ

しかし、元就が家督を相続したことを快く思わなかった者たちも少なからず存在します。

中でも中国最大の版図を持つ尼子家に敵意を向けられたことは毛利の存続を脅かす重大な危機でした。

 

そこで元就が取った方針は尼子に対抗出来得る唯一の存在、大内家の庇護下に入ること。

同時に領地が近い領主たちとの提携を深めたり、京の朝廷とパイプを持ったりとこの時期の元就は地盤固めに必要なことはなりふり構わず行っていたように見えます。

 

ここで元就は更に思い切った行動を起こします。

大内家との関係をより強める為に嫡男の隆元たかもとを大内へ人質として送るのです。

血で血を洗う戦国の世、子供を人質に預けるなんてのは普通のことですが、自分に何かあった時に全てを受け継ぐ立場の嫡男を預けるというのは元就の覚悟が垣間見えますね。

 

更に元就は有力豪族の小早川こばやかわ家に三男隆景たかかげを、吉川きっかわ家に次男元春もとはるを養子として送り込み2家の乗っ取りを目論見ます。

後の両川(吉と小早のこと)体制の初手ですね。

 

この時点で毛利家は、ほぼ安芸を手中に収め、中国地方では大内・尼子に次ぐ大勢力です。

 

時に元就”五十歳”。

人生五十年と言いますが。

すでに残りの人生の方が短いという段階にきていました。

 

家運を切り開いた乾坤一擲の大戦

これまでも元就は数々の成功を遂げてきましたが、50歳を超えてからはさらに加速度的に武運が開いていきます。

その鏑矢が「厳島の戦い」。

 

長年、毛利が庇護下にあった大内家も尼子との敗戦と家中争いから綻びが生じ、毛利が大内を呑み込む時がやってきました。

”厳島の戦い”で陶晴賢すえはるかたを破った毛利家は瞬く間に大内領を支配し、完全に中国地方の最大勢力となります。

 

八ヶ国を制する

大内を滅ぼした毛利にとって中国で残る敵は尼子家のみ。

 

尼子もまた大内と同じく身内同士の争いですでに往年の勢いはありませんでした。

不幸は重なるもので尼子家の若き名君、尼子晴久が突然病死してしまいます。

 

攻め時と見た毛利軍は難攻不落とされる尼子の月山富田城がっさんとだじょうを包囲戦の末に落城させます。

 

こうして毛利家は中国に覇を唱えることになりましたが、元就の命もまた、もはや尽きようとしていました。

 

1571年、毛利元就は孫の輝元てるもとに後を託し、戦いに明け暮れた70余年の生涯を終えます。

 

その他雑記

「天下を競望せず」は孫の改竄説

元就の思想の一端を覗ける言葉として有名な

「我、天下を競望せず」

 

”自分は、強敵たちと争って天下を狙うことは考えてないよ”ってことですけど、意味の捉え方としてよく言われるのは次の2つかな。

 

①この言葉は元就が死去する直前に言ったもので、この時期に京には織田信長がいました。信長のような若くて才能豊かな人間と今更天下を懸けて張り合うつもりはない。これ以上は望まず、毛利家は中国地方に割拠できれば十分。

 

②(遺していく子や孫に対し)中国地方を制するような偉業は自分のような抜群の才能があったから出来たこと、お前たちに同じ真似は出来ない。専守防衛、身の程を知り、天下を狙うようなことはするな。

 

そんなところでしょうか。

 

ただね、これってフィクションの可能性が高いと筆者は思います。

 

理由としては話の出所が怪しすぎる。

 

この言葉を元就の言葉と言ったのは元就の孫の吉川広家きっかわひろいえ

 

元就死後の毛利家当主の毛利輝元もうりてるもとは上記のように関ヶ原の戦いで西軍の総大将。

そして広家は東軍の徳川家康が勝つと思ってて、毛利家を敗軍の将なんかにはしたくなかった。

そんで説得する際に唐突に出てきたのが上の言葉。

 

 

~関ヶ原前夜~

輝元「よっしゃ一発、徳川を叩き潰して秀頼さまに馳走しよう!」

広家「・・・。」

輝元「これで大手柄を挙げたら毛利の地位も爆上がり間違いないし!!」

広家「・・・おそれながら、かつて父からこんな話を聞いたことがございます。」

輝元「ん?」

広家「亡き先主様は今際の際にこんな言葉をおっしゃられたと。」

輝元「何?」

広家「我、天下を競望せず、このこと皆によく申し伝えよと」

輝元「!」

 

 

そんなことあるかな!?

 

広家は確かに元就の孫ですし、その父は毛利三矢の1人である吉川元春きっかわもとはるで家中でも元就に近い位置にいました。

でもね、毛利家首座の嫡孫輝元や三男の小早川隆景こばやかわたかかげはじめ、家中で誰も元就がそんな遺訓を残したなんて言ってないんですよ。

 

元春だけが聞いた。

って広家だけが言ってる。

 

普通に怪しすぎ。

 

他の連中もよくそんな話信じたな?

もしくはこのエピソード自体が創作か??

 

普通に考えて毛利ほどの大勢力が他の天下を狙うような勢力に敵視されないわけがないし、狙われれば争いになる。

狙われる前に手を打つのが元就らしいし、百戦錬磨の元就が自分から動かなければ敵は攻めて来ないなんて甘いことを思うはずがありません。

 

現状敵わない敵なら平身低頭して時期が来るのを待つ。

機先を制した方が勝つと見たら間髪入れず攻め込む。

そういうのが元就の発想でしょう。

 

いや、もはや元就というより戦国乱世を生き抜いてきたような人間なら誰しもがそう考えると思います。

 

よってこの「天下を競望せず」ってのは広家のフカしか後世の創作じゃないかと思います。

 

 

老害扱いはお気の毒、苦労故の心配性

よく言われる元就の特徴に小言が多く、自慢や愚痴に付き合わされ周囲を辟易させていたというものがあります。

 

まあ確かに元就が残した手紙って異様に長くて「そのくだりいる?」って内容も多いんですけどね。

でも手紙のやり取りをするほど親しい人間を愛するが故とも思えます。

 

どれだけ予想して対策してもさらにその上をいくのが現実です。

元就ほど生涯で艱難辛苦を味わってきた人なら、どれだけ注意しても全然足りないってことは骨身に染みて理解していたでしょう。

 

愛する人間を思う故、時には叱咤し、時には激励し、長々と自分の話を言い聞かせる。

彼なりの愛情が詰まっていると思いますけどね。

 

 

 

はい、以上で100選の第1回、毛利元就の記事を終わります。

最後まで読んでくれた方、お疲れさまでしたー。

 

次からもどんどん有名人を書いて読んでくれる人を増やしたいです!

読者が増えたらマイナーな人たちを書きたいんで、その為に!!笑

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