16.うちの推しメンが弱い③ ~大久保忠隣~ 後編

信長の野望

 

幕臣の中心人物となる



着々と出世していく忠隣ただちかは官位にも任官されますし、家老にも列席します。

家老というのは徳川家中のトップ集団です。

将軍様を代表取締役社長とすると家老は役員達という感じでしょうか。



ところで江戸幕府最初期にはっきりとした徳川家中のトップっていたんでしょうか?

石川数正いしかわかずまさ”出奔後のトップは”酒井忠次さかいただつぐ”でしょうし、何なら石川氏最盛期でも忠次かと思うんですけど。この頃って・・・?

後世”四天王”と呼ばれた軍政系の重臣たちも酒井・井伊はすでに亡く、榊原は中枢政治には関わらず半隠居、本多も同じく半隠居。

石川氏も最有力の数正は豊臣に奔った挙句、関ヶ原前に死没。
もう1人の有力者、家成もこの頃には隠居中のヨボヨボですしね。

板倉や土井・本多親子・天海とか吏僚系の大物たちも、この人こそ自他ともに認める徳川の柱石ってほどではないかな。

それぞれトップ集団のうちの1人ではあったでしょうが。

もし、”井伊直政”がもう10年ぐらい生きてれば、そういう存在たりえたかもしれないですね。


・・・ここでちょっと筆者の考えを言ってみましょうか。


それは、


「実はこの頃の徳川家トップって忠隣だったのでは?」


いやトップって言ってもダントツのトップではなくてね。
あえて家臣の序列をつけて1位を選ぶならってぐらいのニュアンスですけど。

う~ん、厳しいか。
忠隣No1説、これと言って証拠になるような話も聞かないので。

まぁ筆者の妄想でしかない話です。


基本的に江戸時代の幕藩体制って合議制ですから権力、あるいは責任の分散の為に絶対的な存在ってあんまりいません。中国やアジア・ヨーロッパ諸国に比べれば。

ローマの議会制や三権分立の思想とかと大本は一緒なんですかね。
そう考えると日本も江戸初期は世界的に見ても先進国だったのか。

文民統制は第二次世界大戦後までできませんでしたが。

民主政治はどうかなぁ。
明治以降はそれなりに民主的だったかな?
戦後ほどの完成度ではないにしろ、時代背景や開国間もないことを考えると。

 

何の話だ。


えー、それで、忠隣は筆者にそんなことを妄想させるぐらい江戸幕府初期には大人物になっていたんですよ。

お父さんも草葉の陰から喜んでいたことでしょう。


忠隣の立場がどれほど高かったかは幕政開始時点では名目上のトップである2代目将軍”徳川秀忠”お付きの家老ということからもわかります。


有名な話で、家康が後継者を子供たちの誰にするかを重臣連中にはかった際、本多正信ほんだまさのぶは次男の”結城秀康ゆうきひでやす”を、大久保忠隣は三男の徳川秀忠とくがわひでただを、井伊直政いいなおまさは四男の”松平忠吉まつだいらただよし”をそれぞれ推挙しました。

結果、秀忠が選ばれ秀忠は忠隣に絶大な信頼を置くようになったという話があります。


上の話はフィクションの可能性が高いそうですけどね。


家康は子だくさんですけど「徳川」を名乗るのが許されていたのは秀忠だけだったらしいので、秀忠が跡を継ぐのは元から既定路線だったんでしょう。

次男の結城秀康は養子に出てましたので、普通に順番から言っても三男の秀忠が嫡男です。


「長男は?」って思った人へ。

家康の長男はけっこう前に亡くなっています。
江戸幕府成立から遡ること25年ぐらい前に。

長男が亡くなる前は長男も徳川を名乗っていた説もあるみたいなんですけど、この人は亡くなり方がちょっと人目に憚られるような亡くなり方だったようでして。

現在、一般的には”松平”姓か世襲の通り名で”岡崎三郎”と呼ばれています。



あと忠隣は豊臣政権時代か、もっと早い三河時代には既に秀忠の付家老だったようです。
昔から秀忠の補佐をして信頼関係も出来上がってたんでしょうかね。

そんなわけで徳川家中のトップなのか2番手、3番手だったのかはともかく、江戸時代初期の忠隣は相当の権勢を誇っていました。


栄達から突然の暗転



そんな栄華を極めていた忠隣に突然の不幸が訪れました。

ある日、知り合いと将棋をしていたら家康からの使者が現れて、その場で改易されてしまいます。
改易とは簡単に言えばクビですね。



まさに青天の霹靂!!

ただ、そこは戦闘民族のエリート王子 大久保忠隣、小物っぽく逃げたり騒いだりはしません。

こうなることはすでに察していたと言わんばかりに全てを受け入れ、途中だった将棋を終わらせると泰然と使者にその身を委ねます。

お見事です。
さすが王子。
推せるわぁ。


そして気になる忠隣失脚の理由は今も定説はありません。

謀反疑惑、家康や秀忠の不興を買った、政争に敗れた、等々言われますが真相は闇の中。


ただ忠隣は改易される数年前に嫡男を亡くしてから、よほどショックだったのか万事にやる気が無くなっていたみたいです。

”三好長慶”や”長宗我部元親”も期待していた嫡男に先立たれて以降、別人のように覇気を失くしてしまったという話もあります。

お家が価値観の最上位にくる時代、未来を託す担い手が消えるということは、現代人には理解できないほど絶望的なことだったんでしょうね。


その後の忠隣は徳川家から許されることもなく失意のままその生涯を閉じます。


出自の良さといい大物感といい悲劇性といい、大久保忠隣ってかなりの大人物だったように思われます。

「信長の野望」で採点者に嫌われてるんですかね?

せめてゴミ呼ばわりされない程度には数字を上げてほしいもんです。

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